俺はこんな所に興味は無い。
むしろ、こんな場所は嫌いだ。
近道のために入った裏道。
単なる気まぐれだった。
それと、いくつかの偶然。
奴隷を売り買いする裏広場。
二つ目の運命はそこから始まった。


喧騒、鎖の擦れる音。
奴隷市場。
なぜ俺は今ここにいるのだろうか。
奴隷などに興味はないのに。
確かに奴隷は合法だ。しかし、奴隷を獣扱いしない者も多いと聞く。
同じ獣なのに、な。
「オニーサン、ミテイッテヨ。イイ仔イルヨ」
俺は手を上げて結構という意思表示をすると足早にその場を離れた。
と言うか、その呼び込みは風俗と間違っていないか?
いや、あまり違いはないかもしれないけど。

俺は足を速めて、さっさとこの周辺から立ち去ろうとした。
「その目をやめろ!!」
ガンっ!!
何か硬い物を蹴っ飛ばしたような音が響いた。
俺はその音がしたほうに目をやった。
♂のぼろぼろのマントに包まった青灰色の毛並みの奴隷がいる檻を奴隷商と思わしき男が蹴り飛ばしていた。
奴隷の緋色の瞳と目が合う。
真っ直ぐとしたいい目だ。この境遇に満足していない、何とかする、そんな決意が見られる。
フフ……。
そうか、諦めていない、か……。

「おい、ちょっとその仔を見せてもらってもいいか?」
「ええ、構いませんよ」
奴隷商が場所を譲る。
俺はその奴隷を見つめた。
奴隷も俺を見据えて視線を動かしもしない。
ふっ、面白い。
「気に入った。おい、こいつはいくらだ?」
俺はこいつを買うことにした。
いや、その言葉は正しくないな。
偶然。運と言い換えてもいいな。
ただの俺の気まぐれ。それが他獣の運命を左右する、か。
神にでもなったつもりなのかね。俺は。

「労働用で?しかし、見ての通り非力なやつでさぁ。ご期待には添えないと思いますがね」
「いや、違う」
「では、性奴隷で?そっちの趣味の方のためのオプションも追加してあるので、後で説明しますよ」
オプション?何の事だ?まあ、いい。
「で、いくらだ?」
「へい、このくらいになりやす」
俺の目の前に数字の書かれた紙切れが差し出された。
高価い。高価いが、俺は奴隷の相場は知らない。もしかしたら、格安なのかもしれない。
なにせ、獣の一生を買うのだから。
「これで、いいか?」
「ちょっと、これは多すぎますよ」
偶然、仕事の後でまとまったお金を持っていた。
それが幸いしたのか災いしたのか。俺がこんなことを考えるなんて、な。
「いいんだ。とっておいてくれ」
おそらく、これから自分がするであろう行動を考えて。
さっきの檻を蹴る音が思い出される。

「おら!とっとと出ろ!!」
「くぅっ!!」
奴隷商は奴隷の首根っこを掴み、檻の外に引きずり出した。
「寝そべっていねえで立ちやがれ!!」
奴隷の仔はもうマントともいえないぼろ布に包まったまま起き上がった。
「左手を出せ」
奴隷の仔が左手を差し出す。
奴隷商が奴隷の仔の手首を握ると、手首の黒い刺青のような模様、隷属呪印が赤く淡い光を放つ。
「これで、こいつはあんたの物です。煮るなり焼くなり好きにしてくだせぇ」
これでこの仔は俺のものになったわけだ。
つまり、どうしようが俺の勝手。
さて、と。予想通りだったからな。
「それでは、オプションの説明をさせていただきます」
「いや、いらんよ。それよりもさっき多く渡したお金のお釣りといっては何だが……」
こぶしを握る。
「おらぁ!!」
ぼくぅっ!!
俺は力任せに奴隷商をぶん殴った。
「さ、逃げるぞ!!」
「ち、ちょっと、な、なんなんだよぉ!!」
俺は奴隷の男の仔の手を取ると、一気に駆け出した。

はぁ、はぁ、はぁ……。
ここまで来ればいいだろう。俺は体力には自信はないしな。
「うっ、はぁ、はぁ……」
「あ、すまん。大丈夫だったか?」
男の仔は息を切らして壁にもたれかかっている。
運動は得意そうに見えないし、牢屋暮らしで体力も落ちているだろう。それを一気に走らせたのだから、相当疲れただろう。
「すみません。あ、えーと……」
男の仔は何かを考えるような、探るような、思い出すようなしぐさをしている。
「あ、俺の名前か。俺の名前はハルグ。呼び捨てでいいよ。もし、呼び捨てが嫌ならさん付けで呼んでくれ」
「…………」
何か黙り込んで考えている様子。
呼び方を思案していたのではないのかな?
「君が望むのなら、ハルグ様でも、ご主人様でもいいよ」
少しからかうつもりで言った言葉に対し男の仔はにこっ、と含みを持った笑いを俺に向けると、
「わかりました、ご主人様」
と言った。
この男の仔は自分から「ご主人様」などと言う性格ではない。
まだ出会って間もないとはいえ、それだけはわかる。
俺は笑顔の可愛い、まだ年端も行かない少年にからかわれているような気がして頭がくらくらした。
「ふぅ、本当にその呼び方でいいんだな?」
「はい、ご主人様」
言い方に少し引っかかるものがあったが、その笑顔からは悪意によるものなのかどうかは、まったく判断がつかなかった。
まあ、どうせそう呼ぶことも長いことじゃない。好きにさせてやるさ。
「その服……と言うか、マントか?ずいぶんぼろぼろだから新しい服を買ってやりたいところだが……もう店も閉まっているころだろう。今日は我慢していてくれ」
「いえ、ご主人様。ぼくは大丈夫です。それよりもご主人様?奴隷にそんなに気を使わなくてもいいと思いますよ?」
……………………。
なんとも悲しいセリフだな。奴隷だって生きた獣なんだ。
今まで、どれだけあの奴隷商にひどい目に遭わされてきたのかがわかるような気がする。
「とりあえず、今日は宿に行こう。まずはゆっくり休んで、それからだ」
「はい、わかりましたご主人様」
なんか、ことある毎に俺のことをご主人様と呼ぶ。やっぱり、からかわれているのだろうか?

この街に宿は多い。
その中でもあまり大きくない宿に俺は部屋を取っている。
そう何件も試したわけではないが、この街に仕事に来たときに取った宿の中では値段も安く、部屋もいい。
この街に仕事に来るときには最近はここの宿を取るようにしている。
「おかみさん、もう一部屋借りたいのだけどあるかな?」
俺の質問に帰ってきたのは、おかみさんの申し訳なさそうな顔と返答だった。
「すみません、あいにくと今日は満室で。毛布くらいならご用意できるのですが」
俺は男の仔をちらりと見る。
男の仔は何を考えているの?という表情で俺を見上げる。
「……わかりました。毛布をお願いします。……部屋に行くぞ」
男の仔を連れて自分の部屋へ向かう。
男の仔は黙って後についてくる。
「あの、すみませんご主人様。ご主人様に質問するのは失礼だと思うのですが……」
男の仔が階段を上る途中で口を開く。
「あぁ、別にいいよ。何でも聞いてくれ」
「それでは……」
その質問は彼にとっては当然の、俺の不可思議な行動に対する質問だった。
「なぜ、もう一部屋取ろうとしたのですか?」
くっ、と俺は笑いそうになってしまった。
なるほど、彼の考え方からすれば、相当不思議なことだろう。
「そのことは、部屋で話をしていればわかると思うよ。多分、直接答えなくてもわかると思うから」
「そう……ですか……申し訳ありません」
俺の後ろから、本当に申し訳なさそうな声が返ってくる。
べつに、いいんだけれどな。

俺は自分が取った部屋のドアノブに手をかけ、扉を開いた。
部屋はシングルサイズのベッドが一つ。
小さなサイドテーブルが一つ。
丸いテーブルが一つ。
イスが二つ。
動き回るには狭いが、寝るには十分の広さだ。
人を呼んで酒を飲むこともできる。
一獣で泊まるにはいい部屋だ。
「まぁ、イスにでも座ってくれ」
俺はグラスを二つと少々ぬるいジュース取り出し、テーブルに置き、もう一つのイスに座る。
ここは酒の方が絵になるのだろうが、俺は酒が飲めない。それに、まだ少年の彼にお酒を飲ませるわけにもいかない。
なにより、俺はお酒を持っていない。
前を見ると、男の仔がきょとんとした顔で俺を見ている。
あぁ、そうか。自分でジュースを出すなんて、と思っているのだろう。奴隷にやらせればいいのに、と。
「思っていることはわかるよ。まぁ、性分だから気にしないでくれ」
「いえ、しかし……」
俺はグラスにジュースを注ぐ。
「ぬるいから、そこまで美味しくないかもしれないけど、どうぞ」
「あ、ありがとうございますご主人様」
なにか、非常に緊張しているみたいだ。
あまり気にしなくてもいいのに……。そういう性格でもない、と思うんだけどな。
「さて、と……あまり緊張しなくていいよ。別にとって食うわけじゃないし」
「でも……」
ご主人様と奴隷の関係を彼なりに考えた結果だろう。
だが、俺がこれからしようとしている事はその考えを根本から崩壊させることだ。
「いいさ。いろいろ聞きたいこともあるし、少し話そう」
「はい、何でも聞いてください、ご主人様」
かくっ。
急にうれしそうになった男の仔の声に体がバランスを崩してしまう。
「ま、まぁいいや。とりあえず、名前を教えてくれる?呼び方がわからないと、困る」
するとまた彼は不思議そうな顔をして口を開いた。
「ぼくを呼ぶときは「おい」でも「おまえ」でもいいですのに。あ、ぼくの名前ですね。ファルって言います」
「そうか、ファル、か。ファルはどうして奴隷になんかなったんだ?言いたくない事だったら言わなくてもいいぞ」
ファルは少し遠くを見るような、悲しそうな目をしてつぶやいた。
「半分は自分の意思で、半分は売られて奴隷になりました」
自分の意思で?
普通はありえない。
家族に……親に売られた。孤児で行く当てがないから。
そして、奴隷を認めるこの世の中でも違法な、さらわれてきた。
この三つしかないと思っていた。
「ぼくの両親は……ぼくがもっと小さいときに死にました。そのとき、ぼくを引き取ってくれた親戚の人がいました」
「その人に、売られたわけか。恨んでいるだろ?」
ファルは静かに首を横に振った。
「いいえ、恨んではいません。ぼくに、とてもよくしてくれていましたから」
ならどうして、と言おうとする俺の雰囲気を察したのかそのまま言葉を続ける。
「貧しかったのです。ぼくの本当の両親もお金はほとんど持っていなかったみたいだし。ぼくが気づくような歳になったときにはもう、どうにもならなくなっていたのです」
そこでファルは一息ついてジュースをあおった。
「ぼくが勝手に奴隷商に交渉して、話が決まってからおじさん、おばさんに話して……ものすごく怒られましたけどね」
ファルがくすりと笑う。
何を考えているのかわからないやつだ。
いい度胸しているというかなんというか。
「その日の晩におじさんが僕に教えてくれたことがありました。「どんなに辛いことがあっても希望を忘れるな。常に前を向いていろ」って。そのおかげでぜんぜん売れなかったのですけど」
またファルが笑う。
笑顔を見ていると、年相応なのに、考え方は大人びているというかなんというか。
「……ファルは本当は奴隷になんかなりたくないだろ?」
「え!?い、いやそんなことはないですよ」
ファルは詰まりながらもそう答える。
俺の、一応ご主人様の前だからそう答えているのだろう。
「いいよ、別に。ファルを奴隷から開放するつもりで買ったんだから」
「はい?」
間の抜けた声の間の抜けた返事。意味がまったくわかっていないのだろう。
「な、何を言っているのですか?ご主人様。今日買われたばかりなのに、何かぼくが粗相でも?」
「いや、そんなことはないよ。ただ、調教され、商品として並べられてなお今の境遇から逃げられる、そんな目が気に入ったから開放する気になっているんだ」
高価くついたけどね、と言葉にしようとして飲み込んだ。
余計な心配をさせる必要はない。
「でも……」
ファルが左手でこぶしを握り、俺の目の前に出す。
「これ、消せないでしょ?」
左手首にある隷属呪印のことを言っているのだろう。
隷属呪印は奴隷を縛り、主人に逆らえないようにする、まさしく呪いの印。
「あぁ、隷属呪印か。俺なら消せるよ。こう見えても上位魔導師だ。ただ、今日は遅いから明日に、だけどな」
とは言っても、俺の専攻は精霊術で呪印術は得意ではない。
が、基本的レベルな隷属呪印を消す程度の事はわけもない。
「これで、廊下での質問の答えもわかったかな?」
「いえ、全然」
がくっ。
もう、何度こけそうになったことだろう。
「だからね、俺はファルの事を奴隷だなんて思っていないんだって。だから、別の部屋にしようとしたんだって」
「いえ、それでもわからないです。本当にそうだとしても、ぼくはまだ奴隷ですし」
生真面目というかなんというか。

こんこん。
部屋にノックの音が響く。
「毛布をお持ちしました」
「あ、ありがとう」
俺は女将さんから毛布を受け取ると、テーブルとイスを部屋の隅に押しやった。
「俺は下で寝るから、ファルはベッドで寝ていいよ。なに、野宿で慣れているからさ」
「いえ、ご主人様、ぼくは昨日まで檻の中で寝ていました。ぼくのほうが慣れています」
呪印があるうちは奴隷として行動するつもりなのか、隷属呪印の効果なのかは俺にはわからない。
隷属呪印が主人に逆らえないように奴隷を縛ることは知っているが、それがどこまでの効果なのかはまったく知らない。
「ファルの好きなほうで寝ればいいよ。ただ、トイレには行っておけよ。お漏らししてもしらねーぞ」
ファルが目を見開く。
怒ったかな?
お漏らしなんかしないよ!とでも返してくるかな?
しかし、その反応は予想とは全然違っていた。
「あっ、あ、あ、あああああーっ!!」
じょぼじょぼじょぼ……ぷっしゃーっ!!
叫び声とともにマントから、いや、ファルから金色の液体が零れ落ちる。
「あ、は、ぁ……おちんちんがあつぅい……」
ファルがぺたんと金色の水溜りの上に座り込み、マントの中で何かごそごそやっている。
にちゃっ……にちゃっ……。
マントの中から湿った音が聞こえてくる。
「どうした!大丈夫か!?」
ばっ。
ファルが俺に飛びついてくる。
「ご主人様ぁ……おちんちんが熱くて、どうしようもないんですぅ……」
ファルはそう言いながら、俺のズボンを下ろそうとする。
一体、何があったというんだ!?
「風の精霊よ、我が名において命ず……」
すまない……。
「スリープ・エア!」
「ぁ……」
ファルが小さく声を上げたと思うと、そのままどさり、と崩れ落ちた。
一体ファルに何が……。
俺はファルを抱え上げると、ベッドに寝かせ、マントを脱がせた。
マントの下には何も着ていなかった。
俺の目にファルの裸体が飛び込んでくる。

「なっ、なんじゃこりゃーっ!!」
俺は夜もふけてきたというのに大声を出してしまった。
あわてて口を閉じ、あたりの気配をうかがう。
とりあえず、文句を言いに怒鳴り込んでくる獣はいないようだ。
はぁ……。
とりあえず落ち着いてファルの身体をもう一度よく見た。
身体中に書き込まれた呪印、呪印、呪印。
いくつあるのか見当もつかない。
それぞれが複雑に絡み合い、すべてを解呪するにはかけられた順の逆に解呪していかなければならない。
左手首に刻まれた、隷属呪印も取り込まれ、複雑極まりない。
奴隷商の言っていたオプションとはこれのことか。
どうやら先ほど反応したのは、下腹部に刻まれた呪印のようだ。
発動条件は「言葉」。「お漏らし」という言葉に反応して生理現象を引き起こす。
さらに他の呪印と連動して発情させる。誰だよ、こんな呪印を入れたやつは。
俺は呪印術は得意ではない。というか、むしろ苦手だ。
この呪印すべてを順番に解呪できる自信はない。
「ふぅ……」
俺はため息をひとつつくと、ファルを部屋に残してエントランスに向かった。
ファルがいつもマントで身体を隠すようにしていたのは、呪印を見られないようにしていたのかな?
「すみません、女将さん。タオルと、お湯をいただけませんか?」
「はいよ、今はお湯は用意できないから、水でいいならすぐに用意できるよ」
「すみません、お願いします。あ、いえ、大丈夫です。自分で持っていきますから」
女将さんから水の張った桶とタオル数本を受け取ると、部屋に帰っていく。
帰り道、ファルに何があったのか想像してみたが、埒の明かない妄想になってしまったので途中でやめた。
想像しても仕方がない。俺は静かに部屋の扉を開けた。
ファルが気持ちよさそうな顔で寝ている。しかし、まだ呪印の効果が続いているのか、小さなおちんちんが天を突いていた。
俺はタオルを濡らし、固く絞ってファルの身体を拭いてやった。
「あう……んっ」
身体を拭くたびに可愛く反応する。
俺はそっちの趣味はなかったはずだが、すごくどきどきしてしまう。どんな夢を見ているのだろう。
………………。
早く終わらせよう。理性が持たない。
頭の中を空っぽにし、無心で身体を拭いていく。
「あっ、く……はぁんっ!!」
ぴゅくん、ぴゅくん、ぴゅくん……。
眠っているファルのおちんちんから精液が吐き出され、自身の青灰色の体毛を白く染め上げていった。
うっ、く……。
落ち着け、冷静になれ。
「ふふふ……」
笑っている。こっちの苦労を知らない、幸せそうな寝顔だ。
精液で汚れた身体をもう一度拭いてやる。
ファルの身体を反転させ、背中も拭いてやる。
背中にもびっしりと刻まれた呪印の数々。これすべての発動条件にかからずに今まで話ができていたものだな。
発動条件もさまざま。「キーワード」を聞くことによって発動するもの。他人の行動に対して発動するもの。自分の行動に対して発動するもの。自分の感情に対して発動するもの。他の呪印の発動に連動して発動するもの。
それぞれが複雑に絡み合っている。
この呪印を入れたやつ、馬鹿か!?
才能の無駄遣いだ!
タオルをすすぎ、固く絞って再び背中を拭く。
おや?呪印の一部かと思っていたけど、毛の模様、か?
赤い、雷のような模様が背中に刻まれている。
ま、いいや。尻尾を根元から先にかけて拭いてやる。
「ひゃんっ!」
びくんっ!!
ファルの身体が激しく跳ねる。
お、起きたかな?
いや、違うらしい。何かほっとしている自分がいた。
何もやましいことをしているわけじゃないのに。
それに、スリープ・エアで眠らせたんだから、そう簡単に起きるはずないじゃないか。自分を信じられないのか?
いや、そういう意味でもない、か。
俺はファルを仰向けに寝かせ、毛布をかけてやった。
……。マントも洗ってやらないとな。
桶とタオル、それとマントを抱えて階段を下りていった。
「あ、女将さん、この辺で水を使えるところって、無いですか?」
途中、女将さんに会ったので、水場の場所を聞いた。
裏庭に井戸があるそうで、自由に使っていいとのこと。
早速裏庭の井戸へ向かった。
井戸の水はまだ寝苦しい夜が続くというのに非常に冷たかった。
タオルを洗い、絞る。
マントを洗い、絞る。
マントはぼろぼろで破れそうだ。気をつけないと。
相当長い間、着込んでいたんだろうな……。
俺は部屋に戻ると、湿ったマントを干し、壁にもたれかかり、毛布に包まり眠りについた。

「ご主人様。起きてください、ご主人様。朝ですよ」
ん……っ。
目をあけずに伸びをする。
寝起きでいまいち状況が飲み込めなかったが、徐々に昨日の記憶がよみがえってくる。
腕を頭の上に伸ばして体を動かし、その後に目を開ける。
「おはよう」
「おはようございます、ご主人様」
ぼろぼろのマントに包まっているファルの屈託のない笑顔。
それが開けられたカーテンから差し込む朝の日差しをうけ、美しく輝いている。
「洗顔用のお水とタオルを借りてきました。冷たくて気持ちいいですよ」
別に、起きてすぐに顔を洗うような習慣はなかったが、せっかくの好意を無碍にする必要もないのでありがたく顔を洗わせてもらった。
冷たい水が気持ちいい。
引き締まるような感じがする。
「昨日はご迷惑をおかけしました。ご主人様、申し訳ありませんでした」
謝る必要ないのに、と思ったが、口に出そうとして一瞬途惑った。
またキーワードを言ってしまうのではないか、と。
俺が調べられたキーワードに接触していないことを確認してから、口を開く。
「いや……大丈夫だよ。心配はいらない」
「いえ、ご主人様が使うはずだったベッドをぼくが使ってしまったりして」
ファルが下を向いてそう言う。
「……いや、気にすることはない」
俺は一言一言に注意して発言する。
キーワードに接触しないように。
「ご主人様?やっぱり、怒っていらっしゃいます?」
ファルが俺を不安そうに見上げる。
「……なんで……そう思うんだ?」
「だって、怒りを抑えているようなしゃべり方ですから。本当に申し訳ありませんでした」
なるほど、俺が考えて発言している様が怒りを落ち着けてしゃべっているように感じるわけか。
「……これには……訳があるけど……怒っているわけじゃないから。……今から説明するよ」

「ファルの体には……いろいろな呪印が……書かれている。……それは、さまざまな言葉や……行動に反応して……ファルの体を……おかしくしてしまう」
考えながら説明するのは苦手だ。
それも、言ってはならないNGワードが存在するからなおさらだ。
「例えば、おも……じゃない……昨日、おかしくなった事があっただろ?あの時……俺が不用意に言った言葉で……呪印を発動させてしまったからなんだ」
またキーワードを言ってしまいそうになって、あわてて訂正する。
「だから……できるだけ、そんな事にならないように……気をつけているんだ」
「それは……」
ファルがゆっくりと口を開く。
「それは、ご主人様が後始末をするのが大変だからですか?後始末も、ぼくがやりますから」
「……そうじゃないさ。……ファルにはあまり、つらい思いをさせたくないだけ。……気にしないでくれ」
俺がそう言うと、ファルの顔が急に不満そうになる。
「ぼくなら、いいですのに。それとも、ご主人様はやっぱりぼくじゃ嫌ですか?」
これも、呪印の影響だろうか?
少しずつ、ファルの人格が壊されていっている気がする。
急がなければなるまい。最初の予定が、意味のない行為にならないうちに。
「……ファル、俺は朝食を摂ったら出かけるけど……留守番をしていてくれないかな?……お昼は……女将に何か頼んでおくから」
ファルの表情が悲しそうになる。
「わかり……ました。ご主人様のおっしゃるとおりに」
この時、俺は気づいていなかった。
NGワードを言ったり、呪印を発動させてしまう行動をとってしまわぬよう、配慮したつもりだった。
この選択が大きな間違いだったことに。

町に出た俺は、最初に手紙を出すために通信所へ向かった。
通信所では鳥や魔法を使って書簡や伝言を近くの町に配達するサービスを行っている所だ。
魔法による伝言サービスならともかく、鳥による書簡通信の場合、わずかに事故が起こる可能性がなくはない。
だが、魔法との併用で事故の確立は格段に減り、値段も庶民に簡単に手が出せるような価格でサービスが可能となっている。
俺は鳥による書簡通信を選択した。
別に、聞かれてまずい内容ではないから、速さを考えると魔法の伝言サービスのほうがいいのだが、手持ちが少しヤバイし。
いろいろまだ使わなければいけないし。
俺は友人に手紙を出した。どちらかと言うと悪友だが。
彼は紋章術・呪印術のエキスパート。彼ならばファルの呪印を解呪できるだろう。
断られないことを祈りながら。

次に衣装屋に寄ってみた。
しかし、ファルの好みもサイズもわからなかったので買うのはやめた。
すごく似合いそうな服はあったけど。
最後に、乗合馬車の駅に行った。
明日の、友人の住む場所の最寄りの町への切符を二枚、手配するために。
ちょうど、二席だけ空きがあった。午後のほうが都合がよかったと思うのだが、午前の便になってしまった。
明後日にすると、手遅れになりそうな気がするので、午前の便で行くことにした。
その分、予想よりは安くついたが。

夕方近く、陽が低くなってきた。
ファルとあったのは昨日の今頃、か。
明日、彼のところに連れて行ったら、もう二度と会うことはないだろう。短い付き合いだったが、楽しかった。
俺はお土産代わりに焼き菓子をひとつ買っておいた。
気に入ってくれるかどうかはわからないけど、なんとなく笑顔が見たい。そんな気にさせてくれる仔だ。
「帰ったぞ」
俺は部屋の扉をたたく。
反応が感じられない。
俺が扉を開けると、部屋の隅でうずくまっているファルが見えた。いったい何があったのだろう。
「どうした?何かあったのか?」
俺が声をかけると、ファルが振り向く。緋色の瞳がさらに赤く、顔がぐしょぐしょに濡れている。
「ご主人様ぁ〜!!」
ファルが俺を確認すると同時に抱きついてきた。と言うよりも、タックルを仕掛けてきたというほうが正しい表現か。
俺はファルを受け止めきれずに尻餅をつく。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ご主人様、ごめんなさい、ご主人様」
あの芯の強いファルが泣きながら謝っている。いったい何があったというんだ!?
「何でもいうこと聞きます。ご主人様には逆らいません。だから、だからぼくを捨てないでください、お願いしますぅ……」
俺は自分がしてしまったミスに気づいた。
「すまん、許してくれ」
俺は倒れたまま、ファルの体を抱きしめる。
なにも、呪印の発動条件は言葉や主人の行動だけじゃない。本人の行動や思考も発動条件になりうる。
今回はなにもせず一獣にしたこと、それが発動の引き金になったようだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
俺は力強く抱きしめ続けた。
この状況で眠らせたりするのは逆効果だ。
そのまま精神を崩壊させてしまいかねない。
落ち着くまで、時間はかかっても抱きしめ続けるのが一番いい。安心させてあげるのが一番いい。
「大丈夫だ。俺はファルを捨てない。だから、心配するな。もう泣かなくてもいい」
「ご主人さまぁ〜……」
泣きながらも、嬉しそうな表情。痛い。心に何かが突き刺さる。
あぁそうか、捨てないなんて嘘だからだ。
確かに、俺はファルを解放するだけで捨てるつもりはない。
だが、今のファルにとってはどちらも同じこと。
俺は再び力強く抱きしめ、頭をなでてやった。
呪印によって精神が操作されているだけ。呪印をとけばこの感情も忘れるだろう。
それでも今はファルのためにいいご主人様でいてやろう。

「落ち着いたか?」
「はい……」
まだ、声が普通じゃない。
どれだけ泣いていたのかは知らないが、相当長いこと泣いていたのだろう。
わずかな時間では元に戻りそうではなかった。
「明日は、ここを出るぞ。ファルを俺の友人に見せることにしたから」
「ご主人様のご友人ですか?粗相のないようにがんばります」
何かを勘違いしているようだが、それを言うわけにはいかないから黙っておいた。
ちょっと遅いが、お茶を入れてお菓子を机の上に置いた。
「ご主人様、これは?」
見たこともない、といった感じでお菓子を眺めている。
「ん?ああ、ファルと一緒に食べようと思って。いいよな?」
「ご主人様がぼくなんかに気を使わなくてもいいですのに……」
申し訳ないといった瞳。
ずいぶんと呪印に心を侵食されているみたいだ。
「いや、俺がファルと一緒に食べたいから、買ってきたんだよ。一緒に食べよう」
「ご主人様がそうおっしゃるのなら」
あまり、長いことは一緒にいられない。
本当はあまりかかわらない方が良いのかもしれない。
だが、わずかな時間でも楽しませたい、笑顔が見たい。
そう思ってしまう俺は、もうダメなのかもしれない。
まぶしい笑顔。それが心に突き刺さる。
作られた、操作された心。
その笑顔が悲しく感じられる。
だからこそ、解放する。一刻も早く。
心が侵食されないうちに。心が壊れてしまわないうちに。

「ご主人様。お願いがあるのですが……」
おずおすと、伏し目がちな感じで問いかけてくる。
「お願い?」
「ご、ごめんなさい。なんでもないです」
俺が聞き返すと謝るように言葉を切ってしまう。
「いいよ。言ってごらん。俺にできることだったら、してあげるから」
「あの……その……ご主人様。一緒に寝ても……いい、ですか?」
ファルが上目遣いで切り出してくる。
「……ベッドは一つしかないしな。いいよ」
「あ、ありがとうございます!!」
そういうとファルはマントを脱ぎ、裸になった。
って、おい!
「な、なにも、脱がなくてもいいんだぞ」
「?昨晩、ご主人様が脱がせたじゃありませんか?それに、ぼくは今までも夜は裸で寝ていましたし」
う……。あれは仕方がなく……。
「ご主人様も脱ぎません?」
屈託のない笑顔で問いかけてくる。
「い、いや、やめておく……」
「気持ちいいですのに……」
ファルが残念そうに言う。
いや、俺の息子が勃起していて、脱げないのが理由なんですけど。
脱いでしまったら、俺にはファルを襲わない自信がない。
今のファルなら、笑って許してくれるだろう。
その代償として、本当の笑顔は二度と見れなくなるだろう。
耐えるんだ。
ファルを救うためにも。
「それじゃあ、お休みなさい、ご主人様」
「お休み……」
俺とファルは同じベッドにもぐり、寝ることになった。
が………………寝られん!!
ファルが隣で幸せそうな寝息を立てて身体を摺り寄せてくるもんだから、興奮して寝られやしない!
結局、俺が寝られたのは限界まで疲労した明け方だった。

「ご主人様、起きてください。ご主人様、朝ですよ」
ファルに起こされて目を覚ます。
まだ眠い眼をこすりつつ、ベッドから起き上がる。
「よく眠っていらっしゃいましたね。お水とタオルを用意いたしました」
いや、ぜんぜん眠れていないんだけれどな。
とにかく、俺は顔を洗って眼を覚ますことにした。
んっ、ここの水は冷たくて気持ちがいいな。
タオルで顔を拭く。
ここでようやく、ファルの顔を見ることができた。
マントを着ている。
それはそうか。
なんだか少し残念なような、ほっとしたような複雑な気分だった。
「おはよう、ファル。朝食をとったら出かけるぞ」
「はい。よろしくお願いします」
何をよろしくなんだろうか?
まぁ、深くは考えないことにしよう。
本当は、午前中にファルの服を買って、午後に出発をしたかったのだけど、午前だしなぁ。店が開いていない。
「女将さん、チェックアウトね」
俺は女将さんに料金を支払い、チェックアウトを済ませると馬車の乗り場に向かった。
「ご主人様……その……よかったら手を繋いでもらえますか?」
「あ、うん、いいよ」
ファルがにこっ、と笑う。
本当にかわいい。
「すみません、ご主人様。馬車とか、初めてで。どんな風にしたらいいのかわからないので、ご迷惑をおかけするかもしれません」
「大丈夫だよ、そんなに身構えなくても」
馬車はすでに到着していた。
六獣乗りの馬車。中はそんなに広くなく、二獣掛けの席が三列。
その一番後ろの列の席が、切符の指定席。
ファルと隣同士というのは、幸運だった。
まだ時間ではなかったが、乗客が全員そろったので早めに馬車が出発した。
「あらあら、かわいい仔ね。息子さん?」
前に座っていたおばちゃんが振り向いて話しかけてきた。
寝たりないから、寝たいんですけど。
「いえ、違いますよ。ぼくはご主人様の奴隷です」
あつっ!しまった。
そういうことをうかつに話さないように言っておくべきだった。
まぁ、服装から大体想像はついてしまうと思うけど。
奴隷を……というか、奴隷を持つものを快く思わない人も多くいるのは事実だから。
奴隷自身を快く思わないものもいるが。
「あらあら、そうなの」
やはり、か。
おばちゃんの目つきが少し変わった。
「ちゃんと食べさせてる?少しやせているようだけど」
おばちゃんが俺のほうを向き、しゃべりだす。
おせっかいなタイプっているよな。
「ご主人様を悪く言わないでください!まだご主人様の奴隷になってすぐですけど、ご主人様はいい獣です!!」
ファルがまるで自分をけなされた様に、大切なものをおとしめられた様に反論する。
「ファル、いいんだ」
俺はファルを制する。他に乗っている獣もいるし。大きな声はよろしくない。
「あらあら、そうだったの。ごめんなさいね。これでも食べて機嫌をなおして」
おばちゃんはファルにみかんを差し出す。
ファルはそれを受け取ってもいいものか、と瞳で問いかけてくる。
俺は軽くうなずいた。
「ありがとうございます。いただきます」
ファルはみかんを剥き、一つを口にほおりこんだ。
「あ、ご主人様、甘くておいしいですよ。ご主人様も食べます?」
「いや、それはファルがもらったものだから、ファルが食べな」
おばちゃんの目を気にしている、って言うわけじゃあないけど、ファルがもらったものに手をつけちゃあ、いいご主人様とは見られないだろう。
なんとなく、そう思ってしまって遠慮をしてしまった。
「そう、ですか……美味しいですのに」
「ファル、俺は少し寝るから、着いたら起こしてくれ」
俺は昨日、寝られなかった分を取り戻すべく、少しでも寝ようかと思い、目を瞑る。
「わかりました……」
ファルのその声が聞き終わる前に、俺の意識は闇に落ちていった。

かたんっ。
馬車が揺れる。たぶん、到着したのだろう。
俺は目を開けずに、ファルが起こしてくれるのを待つことにした。
「着きましたよ、ご主人様」
俺の体が軽く揺さぶられる。
「ん……ありがとう、ファル」
俺はゆっくりと目を開け、座席から立ち上がった。
馬車がトラブルなく、順調に進んでいたとすれば、昼過ぎと言ったところか。
「どこかで食べて、そしたら行くぞ」
「はい」
素直な返事。
そして、お別れまで後すこし。
自分で決めたことなのに何か寂しい……。
俺がファルと別れたくなくなっている?
いや、考えるな。別れたくないファルは「自分」を保っているファルだ。
「奴隷」になったファルじゃあない。
ファルを手元においてしまえば、「奴隷」になってしまう。
「開放」すれば、一緒にはいられない。
なら、どちらが良いかなんて決まっている。
考えるな。

「おいしいですね、ご主人様」
俺は露店でサンドイッチを買い、郊外にある友人の家に行く途中の大きな木の下でファルと食事を取っている。
うん、これは俺のエゴだ。
少しでも一緒に居たいから、少しでも二人で居たいから、お店で食べることをやめ、外で二人で食べることを選んだ。
「ああ、美味いな」
普通のサンドイッチだ。ごくごくありふれた味であるはず。
それなのにどうしてこんなに美味しいんだろう?
ファルが食事を終え、ころん、っと横になる。
……マントの脇からおちんちんが見えている。
俺もファルの横で寝転がり、食休みをとることにした。
快晴で気持ちのいい風だ。
「ねえ、ご主人様?少し聞いても良いですか?」
「ん?いいよ。なんだい?」
俺は寝転んだまま空を見上げて答える。
「あの、これから会うご主人様のご友人って、どのような方なのですか?」
「あー、クルーの事か……」
俺は「奴」のことを思い出していた。
確かに、いろいろな思い出はあるが……。
「一言で言うと「やな奴」だ」
「はい?ご友人、なんでしょう?」
ファルが起き上がりながら聞き返してくる。
「友人って言ってもいろいろあるよ。奴は……「悪友」だ。だが、嫌いなわけじゃないよ……。例えば……」
俺は「奴」との思い出を思い出してみた。
………………………。
だめだ!!いい思い出が全然ない!!
「すまん、思い出せねーわ」
「ご主人様にとって悪い人なのですか?それならぼくも戦いますよ」
何か勘違いさせてしまったっぽい。
まいったなぁ……。とは言うものの、本当のことだから仕方がない。
「いや、そんなことはないよ。それに「奴」は呪印術・法陣術など、配置系の魔法のエキスパートだから」
つまり、罠を仕掛けるエキスパートでもあるわけで、何度嵌められたことか。
……また腹が立ってきた。
「ご主人様は上位魔導師なのですよね?ご友人のクルー様も上位魔導師なのですか?」
「そうだよ、俺は精霊魔法の、「奴」は魔法陣系の上位魔導師。方向性は違うけど、同じ魔法学園の同期だ」
そうだ、学園時代からどれだけ借りがあるというのだ!
しかし、「奴」に一矢報いる手段が……無い。
……それに、今から「奴」には頭を下げに行くんだしな。
「よっ……っと」
俺は一気に上半身を起こした。
あまり、ぐずぐずして決心を鈍らせるわけにはいかない。
「それじゃあ、そろそろ出発するか」
「はい!」
ファルが俺の前に立ち、顔を覗き込む。
「あれ?ご主人様。口の周りにソースがついていますよ?取ってあげますね」
そう言うと、いきなりファルは俺を押し倒した。
急な出来事だったことと、予想以上の力だったことで、何の抵抗もできなかった。
そしてそのまま、ファルが俺の口にキスをしてきた。
正確には、口のすぐ横だったのだけど。
しかし、そのすぐ後、間髪を入れずに唇を奪われた。
うぐっ、し、舌が挿入って……。
なぜこんな事になっているのか、わからなかった。
が、その疑問もすぐに氷解した。
おそらく、どこかの呪印が、反応しているのだろう。
俺は自分の迂闊さを呪った。
なぜ、油断してしまったのだろう。
すべての鍵はまだ分かっていないというのに。
ファルを眠らせて……だめだ!呪文が詠唱できない。
ならば、印を切って……だめだ!腕が動かせない。
おそらく、ファルはこの行為がどういうものなのか分からずにしているのだろう。
まずい……!俺のほうが溺れてしまいそうだ。
気持ちいい……。テクニックなんて知らないと思うのに……。
これも呪印の効果か!?
それとも、俺自身が慣れていないせいか?
あるいは、既に俺がファルに溺れているからなのかもしれない。
「ぷはぁ……ご主人さまぁ……」
ファルが唇を離す。
「ご主人様のお口、おいしいですぅ……」
今なら、呪文を詠唱できる。
今なら、印を切れる。
でも、俺はどちらもすることができなかった。
ただ、力いっぱいファルを抱きしめる。
それが今の俺にできる精一杯の抵抗だった。
「ファル……」
すぐに、元に戻してやるからな。

そのまま、どれだけの時が過ぎたのだろう。長い時間に感じられたが、ほんの一瞬だったのかもしれない。
「ご主人さまぁ……」
ファルの甘い声。
いつまでもこんな時間をすごしていたかったけれど、早く行かなければならない。
名残惜しいけれど、俺はファルを引き剥がした。
「ファル、食休みもこれでいいだろ?早く行くぞ」
「はぁい……」
ファルは少し不満そうな顔をしながらもほとんど無い荷物を持ち、出発の準備を始めた。
「もうすぐつくから」
俺はファルの手を握り、普段よりもゆっくりとしたペースで「奴」の家への道を歩いた。
「いつまでも……こうしていたいですね……」
ファルがぼそりと漏らした一言。
俺はぎくり、とした。
これからどうなるかは知らないはずなのに。
今の俺の気持ちを読んでいるかのような一言。
……ごめんな。
でも、俺はお前を壊したくはないんだ。

「奴」の家に着く。
郊外にある一軒家。
まぁ「奴」は変わり者だからな。
物語に出てくるようなイメージ通りの魔法使いの家って感じだ。
いや、正直この家は不便だと思うけど。場所的にも、デザイン的にも。
「ここ、ですか?ご主人様。扉をお開けしますね」
「おい、ちょっと待て!うかつに触るな!!」
言い終わる前にファルはドアノブに手をかけていた。
「うああああああ〜っ!!」
ファルが叫び声とともに、左足が何もない空中に縛られているかのように宙吊りになっていた。
いや、実際には目に見えないだけで魔力源があるんだけど。
「ご主人様ぁ……一体どうなっているのですぅ?」
ファルはマントを押さえているけれど、重力には逆らえずに捲れあがっている。
かわいいおちんちんが丸見えだ。
「「奴」の仕業だ。うかつに手を出すとこうなる。だろ?」
俺は振り返りもせずに後ろの「奴」に言った。
「防犯だよ、防犯。当然じゃないか」
「すぐそこで気配を殺して見ていて、何が防犯かね。てゆーか、早く降ろしてやれ。俺じゃ解除できない」
気づいていた。
すぐそこに「奴」が隠れているのには気づいていた。
そして、何かをたくらんでいるのも。
しかし、伝えるのが遅すぎた。
「はいはい」
そう言って「奴」はファルが吊るされている下あたりでごそごそやり始めた。
どうやら、ドアノブに触れた際、足元の魔法陣が反応する仕掛けになっているようだ。
確かに、この仕掛けは防犯に適している。
しかしなんで、こいつは悪戯トラップに使う!!
「あ、もう少しで解除できるから、落ちるぞ」
は?
なんですと?
逆さ吊り状態で落下したら頭を打つではないか!!
だあああああっ!!
俺はあわててファルを受け止めようとした。
どがっ!!
ぐげえ!!
スライディングして華麗にキャッチ、はできずに背中で受け止めてしまった。
「ご、ごめんなさいー、ご主人様ぁ〜」
「いい、いい、謝らなくても。むしろ、謝るべきはこいつだし」
俺は「奴」の方を見る。
しれっとして悪びれた様子もないが。
「立ち話もなんだし、中に入れよ。お茶くらい出すから」
まぁいいけど。
俺は辺りに注意しながら扉を開けた。
「大丈夫、もう防犯システムはないから」
信用できるか!!

「で、詳しい話を聞かせてくれるか?大体の事情は先の手紙でわかっているが」
カップとティーポットを用意しながら「奴」が話しかけてくる。
「あぁ、そうだな。その前に……ファル。お前は少し外に出ていてくれないか?二人だけで話がしたい」
ファルは少し寂しそうな顔をすると、軽く頭を下げた。
「わかりました、ご主人様。ぼくは家の外で周りを見ていますので、いつでもお呼びください」
そう言うとファルは外に出て行った。
「話に入る前に、ひとつ聞きたいことがあるんだが」
「なんだ?」
とりあえずは、あのことは聞いておかないと。
「家の周りに、トラップはないよな?あいつが引っかかると困る」
万一、危険なトラップがあると大変だからな。
こいつは危険なトラップは作らないはずだが。
「ないよ。しかし、そんなに気にするってことはいつのことを相当気に入っているね。もう手は出したの?」
何をいっとるですか、こいつは!!
自分で入れたお茶をすすりながら何かを想像している風だ。
ったく、いつもながらこいつは!!
「何の話だよ、手って言うのは!」
「ちっ、引っかからないか」
何を考えて、何で引っ掛けようとしていたんだ?
ま、いいけど。
「それで、話を元に戻すけど、一刻の猶予もなさそうなんだ」
俺は、今までのことをかいつまんで話した。
襲いそうになったこととかは伏せて。
「一言、言っていいか?」
「なんだ?」
なんだか嫌な予感がするが。
「偽善者」
って、おい!
「言っておくが、俺は偽善者じゃないぞ。ましてや正義でもない。俺がやりたいからやっている。それだけだ。自分の心の平穏のためにな」
偽善者というのは善人を装うこと。
俺のは自分のために行っているから、偽善ではない……たぶん。
「それを通常は偽善者と言うと思うのだが?」
ぐはっ!
あううぅう……。
もう、偽善者でもいいや。
「とにかく、事情はそれだけだ。引き受けてくれるな?」
「別に知らない仲じゃないし、急ぎの仕事も入っていないから、ギャラしだいで引き受けてもいいぞ」
……ただでやってくれ。
って、お金用意してきているけどな。
「まぁ、普通に仕事を頼むよ。仕事の面では一応信頼している」
「一応って何だ!」
仕事以外で信用できるか!このトラップマニアが!!
「とりあえず、これが依頼料。これでいいか?」
袋から取り出して「奴」が中身を確認する。
……何も見ないで引き受けてくれよ。
「経費さえ出ればそれでよかったけどな。ま、多い分はありがたく貰っておくわ」
……やられた!
「それで、こっちはファルに……あいつに呪印を消したら渡してやってくれ。どんな風に使うのも自由だって」
「って、袋を開けなくても明らかに私の報酬より多いぞ!!」
そりゃそうだろ、普通に報酬と長期間の生活費や衣服を買うために多めに入れておいたんだからな。
「それはいいとして、お前はどうするんだ?聞いた話だとファルだっけ?と離れるのはまずいんじゃないか?聞いただけだからよくは分からないが、それだけ呪印が入れ込んであると一日二日では解呪は終わらないぞ」
そう言えば、そうだな。
俺も仕事があるし……。
「俺は泊まっていく振りをして出て行くよ。後は任せる」
「無責任な奴」
言われたくないわい!
「とにかく、気づかれないように頼むよ。壊れたら元も子もない」
「奴」はにやりと笑って、お茶をすすり、茶菓子を口に放り込んでから答えた。
「まかせろ」
信用できねー!!
いやもう、信用するしかないんだけれど。
「も、ファルを呼んでくるよ」
俺は頭を抱えながら家の外へ出て行った。
こいつに頼むのは、間違いだったか?
しかし、ほかにいいコネもないし……。
「ファルー。どこにいったー?」
ファルを探して回る。なぜか見つからない。
すぐそこにいて呼べばすぐに来るっていっていたのに。
「ごーしゅじーんさまー、たーすーけーてーくだーさーい!!」
なんだ!?いったい何があったんだ!?
俺はあわてて声のするほうに走っていった。
「一体何があったん……」
言いかけて俺は言葉を失った。
ファルが再び逆さ吊りにされていたから。
今回は両足が固定され、大股開きになっている状態。
あんの馬鹿やろぅがぁ!!トラップは無いと言っていたじゃないか!!
俺は大急ぎで部屋に戻り、「奴」を引きずって連れ出した。
「すぐにトラップを解除しろ!!つーか、トラップは無いと言っていただろ!!」
「あー、忘れていたかも」
「奴」はしれっと答える。
もーやだ……。こいつは……。
「奴」にファルを降ろしてもらい、部屋に戻ることにした。
「頼むぞ。マジで」
「心配するな、大丈夫……だ」
全然これっぽっちも信用できないんですけど。
「ファル、今日はこいつの家に泊まっていくけど、クルーの言うこともちゃんと聞くんだぞ」
「え?はい、わかりました。よろしくお願いしますね。クルー様」
ファルは「奴」に向かって深々と頭を下げた。
「様」などつける必要ないのに。
「ん、まぁ、別々の部屋になるけど、いいよな」
「構いませんよ」
と言うか、そうじゃなかったら困る。逃げられん。
スケジュールはぎりぎりだし。
ファルは不満そうな顔をしていたけど。
「ファル君は二階の部屋を使ってくれ。案内するから」
「奴」はちらりと俺のほうを見る。
今のうちに逃げろ、と言っているようだ。
ありがたく、従わせてもらおう。
くれぐれも!頼むぞ!!




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